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Takeo Hara

徐州にいた女先生


(朝日ジャーナル 1973.1.5-12 Vol.15 No.1「特集 私にとっての教育 第二部 抗するもの・超えるもの」より、原武夫「徐州にいた女先生」の一部を抜粋)

昭和十四年四月、私は小学校二年生で、「徐州日本人学校」というところにいた。正確には、日本人とされていた朝鮮を祖国とする少年たちと、私ども、戦争出稼ぎ一旗組の親を持った子どもとが混成の、日本語を使う小学校に通学していた。子どもの記憶であいまいだが、全校でも二〇人くらい、とにかく、一クラス二年生は六人しかいなかった。いや、これもおかしい。二年生六人を平均値とみれば、三六人いるはずだ。あれは、私とあと二人の三人が二年生の複式学級であったか。数合わせはともあれ、この二年坊主であった私の同級の友だちは、二人という記憶しかない。一人は郭君で、一人は崔君だ。二人とも、「日本人」小学校に通う朝鮮の友人であった。日本語を使っていた。時に彼らは祖国の朝鮮語をしゃべっていた。その時には、こっちも習いおぼえた同じ言葉をしゃべった。教室で、彼らは言いよどみ、もどかしそうに、朝鮮語で答えたあとよくいいなおした。

先生は女の先生であったが、ゆっくりと、そこが日本語を公用語とする教室であることをむしろ諦観しているがごとく、時には子どもたちの共通必要言語である中国語を使ったりもした。中国語をしゃべらぬことには、街角で用が足りない。親の思いはどうあれ、屈託ない二年坊主三人つまりは三カ国語を話し、昭和十三年五月十九日に日本軍が占領した略々その一年後の中国「徐州」「日本人小学校」に通っていた。中国の少年ともども豚を追って走ったり、石仏のいます丘陵へ親の心配をよそに夕暮れまで出かけ、帰っては「ヒゾクにやられたらどうするの!」と命ひきかえの遊びを叱責されても、「ヒゾク」とはなんのことかしら、と、しかとはわからず、わが家の向かいの日本の兵隊さんがなんとなく思い出されてはいた。

「支那は敵だ」と言われても、その「敵」の国にいて、「日本人小学校」の看板かかげる教育の門をくぐっているからには、まことは異国の者、敵だ敵だでは町も歩けぬはず。もちろんいわずとしれた日本軍の宣撫隊が町の隅々に「東洋鬼」を否定するPR作戦を展開してはいたのだろうが、“徐州大会戦”一年後の町は、子どもの目に、表面的には遊びまわる大地の確かさこのうえもなく、人馬進んだ麦畠に残る砲弾の跡なまなましく、道のそこそこに大きなくぼみのある町ではあった。かろうじて残った中国人の住居跡を接収したのを借用し、高塀まわした家に、親子四人暮らしてはいたのだが、抵抗激しい戦いの地に、すぐさま「日本人小学校」ができたというのはどういうことであったのか。それほどにも、日本人(と日本人とされていた朝鮮人)の子どもたちがいて、それに学校教育を受けさせる必要性があり、なお、そこに日本人の教師がいた(もしくはいることを余儀なくされた)状況があったということなのだろうが、それらを、日本の軍隊が守っていたというのがタテマエ。

その日本軍隊の兵隊ども、酔っぱらっては夜半、親父殿出張不在のみぎり高塀乗り越えて、おフクロ殿を狙いに来ること毎夜に及び、母子ともども警戒に戦々恐々。二年坊主の私が棒きれつかんで兵士の向こうずねかっぱらい。泥酔の兵士、高塀の端からもんどりうって暗黒の路へ転げ落ちる音、幾度も、幾度も、幾度も重なり、やがてのほど、親父殿も、出張不在を知るは日本軍人のみ、その隙をうかがう兵士どもの心底に思い至り、急ぎ引越しとはなった。日本人が日本軍から身を守る不思議さ。それも「敵」国のなかであってみれば、そこへ行くこともならず、戦火のなかに残された部族的中国人集落の土塀に囲まれた一郭に身をひそめる。戦場の兵士に通常の、倫理規範ない日常、こうなれば「テキ」とは一体なんなのか。「テキ」であったはずの人たちのなかに囲まれて安らぎながら、「テキ」となった「ミカタ」とつきあう矛盾。

そのなかに「日本人学校」の女の先生もおられた。なんのゆえか、独身で年若いその先生は、私どもと同じく、中国人の部族的集落の土塀に囲まれた一軒家におられ、それ以前におられた日本軍隊の傍らの家には、毎夜のように兵隊、将校ども、扉ぶっこわれるほどにも叩きつけ、部屋へ上がりこんでいたということどもをおフクロ殿と茶のみ話にしているのを二年坊主が耳にし、「ヘータイさんはランボーモノ」の印象、ますます強くしていた。「敵は支那」といわれても、心情としての「敵」は、まさしく眼前に徘徊する日本軍人に相違なく「敵は日本軍人」!けれども、「国」としての「敵」は「支那」であるというまさにその土地に、一家、ならびにその先生も済んでいるという事実。笑うべし、絶対矛盾の自己統一。「徐州日本人小学校」とは、まさに、このような状況のなかでの「日本人」小学校であった。朝鮮人と日本人のころもが同居していることの方が、むしろ、なんらの不思議なく、毎朝迎えに来る崔君の日本語がおかしいとおフクロ殿がひやかすことも、なにやら腹立たしいといった具合であった。

あの地にあの時点でおられた教師たちとは、一体どのような人たちであったのか。かなりやはりそれは忙しい人たちであったはずだ。複式学級の、今でいえばさしずめ超僻地校七級指定ぐらいの土地であったはずの場所で、教師という職業に就いていた人たちの忙しさは、しかし、確かに子どもと真向から切りむすぶ忙しさであったのではないか。見たままを話す子どもの目のなかの兵隊さんが、テキそのものである事実と、東洋平和のタテマエは、教育現場の一日一刻に充満した解きがたき矛盾であったはずだ。

図画の折り、私は生まれて初めて「甲の上々」というものをもらい、これも同じ「甲の上々」であった郭君と二人、飛び跳ねて喜んだ。複式のクラス一同、図画の時間は郊外写生に出かけ(郊外といってもそこはまさしく戦跡。激戦のあとに白木の大きな慰霊塔が建ち、大人どもはこれを共同墓地と呼んでいたが、子どもそのわけも知らず「コードーボチ」と呼びならわしていた。「甲の上々」はこの「コードーボチ」の画であった)、先生は繰返し「持っている色全部を自分の思ったように使いなさい。見たように描きなさい」と注意してまわった。その年若い女教師の胸のうちで、慰霊塔の下に眠る兵士と、夜ごと怒鳴りあばれこむテキとしての日本兵がどのように結ばれていたか、知る由とてないが、先生は、私と郭君には「甲の上々」、崔君には「甲の上」という採点をした。

その日であったかどうか、遊びに行った崔君の家は薄暗く、彼のおフクロさんは私などにはほとんどわからぬ早口の朝鮮語で崔君に話し、それが「甲の上々」と「甲の上」の差別を、日本人と朝鮮人の差別と感じ、そのいたたまれなさのなかでもなお、子どもを「日本人」小学校に通わせねば教育を受けえぬという状況への腹の底からの怒りであり、哀しみであったのか、その時は何かおそろしく崔君ともども涙こぼれそうなありさまで、二人脱兎のごとく外へ逃れ、ついでに郭君もさそい、叱られた原因の「コードーボチ」まで遠出となった。

三人の二年坊主は、ひっくり返りころげまわり、土まみれほこりまみれ、大陸の地平線に夕日落ちるのも忘れて遊びまわっていた。気分よく帰る道の途中、朝鮮と日本の母つれ立ち、先生もそこにいて、親どもはそれぞれぶんなぐらんばかりの勢いで「シナジンニコロサレタラドースル!」と、まるで二年坊主の実感にはない言葉つらねつらねて叱られたが、先生はただ、「暗くなる前に家へは帰るもの」とそれだけであった。

その夜、家の前をトラックに“匪賊討伐”の兵隊乗せる音騒々しく、深夜はるかに鉄砲のはじける音を聞いた。「音を聞いた」としか言いようのない実感ではあったのだが、そこがまさしく敵地には間違いなく、一体、そんなところで行われていた「思ったように」「見たように」描く図画をはじめとした教育原理はなんであったのか。そこに今どうしてもこだわりたくなるのは、かつて山本鼎らの主導した自由画運動の、つまりは型にはまった臨本主義を拒否した姿勢の影響が、後日母に見せてもらった二年坊主の「甲の上々」図画のなかに、確かに見たからであった。そしてそのような教育は、実感のなかの「テキ」を見つめていた子どもの目と狂いなく一致していたということが、本当に大事なことのように思えるのだ。

徐州日本人小学校はたった一年間いただけで、三年生の私は、日本の青森県の小学校に入った。それこそ、見たまま思ったままを長々と書きつらねた作文を「支那の思い出」という題で書き、先生に出したところ、先生まるで仇敵に出会ったごとくにバッサバッサと削りに削り、鉄道時刻表なみの骨がらだけ残しておいて、題も「支那のこと」と直してくださり、それを“文集”にのせていただいた。私は、なぜくわしく感じたままを書くのがいけないのか、わけもわからず、おフクロ殿に聞いても納得いかず、ましてや先生は答えるはずもなかった。生涯一度の「甲の上々」の実績忘れられず、「支那のこと」よりは「支那の思い出」に固執し、「見たままくわしく」書くことがよいのだと言いたて言いたてしたが、一年間のブランクは思えばウラシマタロー的長時間にわたる国策教育不在期間であったらしく、言い立てる三年坊主の親が後日呼出され、厳重に注意受ける始末。異端の相貌あらわにした駄々のこねぶりであったが、翌年、小学校は国民学校に変身したのだから、ちっぽけな子どもごときの異議申立ては鼻毛で吹いて飛ぶようなものであったのだ。

あの中国におられた先生たちは本土追放もしくは本土教育より逃亡された方たちであったのかなどとも、今にして思える。だが、本土にも、教師のなんたるかをわきまえた方たちがおられ、ひそかに北方綴方教師の伝統を守り、課題主義や美文、実用文万能を否定していた先生に、その後出会ったのだが、統制のさなかに自らの腹の底でその伝統を守るということは、よほどの巧みな教育技術経験に支えられていたことなのだと、思えてならない。当時そのようにして生きのびた技術は、そのまま立枯れてしまったのだろうか。

先生は、もっと違った方向で忙しくなれないのか。かつて本土を逃れた(あるいはそれは一種の出稼ぎであったかもしれないが)超僻地並みに見られていた異国に「教育」を求めておられた先生のあったごとく、今もしばしば、僻地教育のなかに「人間尊重」の姿勢があると聞くが、乱暴な言い方を許してもらえば、日本国中で僻地教育をやったらどうなのだ。そのために忙しく立ちまわったらどうなのだ。経済大国の主役を下りて、僻地主義でやってみることが、二十一世紀の主人公である子どもたちと今かかわっている私どもにできる最良の教育方法なのではないか。それが「テキ」を間違わず見すえるしたたかな生命力を育て、二十一世紀を生きていく道につながるのではないか。なりさがりの不遜文部省がそれでは困ると言ったからといってもよいではないか。文部省の今のお役人は二十一世紀には死亡届を出しておられるはず。先生方も、私どもも、その点はまさに狂いなく確実なのだ。ゆたかでやわらかい心をこそ、二十一世紀人に捧げるべきではないのか。

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